2011年11月23日水曜日

地中海クルーズ記 <チュニジア>

④チュニス(チュニジアの州都) 

【概要】
チュニジア共和国はアフリカ世界・地中海世界・アラブ世界の一員。アルジェリアとリビアに挟まれており現在はこの両国とモーリタニア・モロッコと5カ国で1989年に経済協力機構であるアラブ・マグレブ連合を作っている。

【歴史】
古代フェニキア人が交易拠点として移住し、紀元前814年カルタゴ建国、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力・ローマとシチリア島の覇権を巡って衝突。

・紀元前264年に第一次ポエニ戦争。カルタゴは敗れシチリアを失い、スペインに拠点を伸ばす。
・第二次ポエニ戦争では名将ハンニバル・バルカ将軍が大活躍。象を引連れピレネーを越えてイタリアの北からローマを攻撃しローマを滅亡寸前まで追いやったが、スキピオに本国を攻略されて撤収。
・第三次ポエニ戦争で完全敗北し紀元前146年に滅亡し、チュニジアはリビアと共にローマの属州となりキリスト教も伝来。

その後西ローマ帝国の管区、ゲルマン系ヴァンダル人のヴァンダル王国→534年東ローマ帝国→アラブ人の侵入。アッバース朝カリフに臣従したアグラブ王朝・ファーティマ朝・ズイール朝・ムワッヒド朝と続き、1229年ハフス朝。「歴史序説」を著したイブン・ハルドウーンが活躍。
→1574年オスマン帝国に→フサイン朝
→1837年アフメド・サダク・ベイがアフリカ初の立憲君主になり、近代化・西欧化を図る。
1861年イスラム世界となり1864年憲法停止。西欧化挫折→1878年フランスに宗主権・フランス侵攻・1883年フランスの保護領に
→1907年青年チュニジア党→憲政党→新憲政党
→1956年アル・アミール国王を条件に独立。
→1957年チュニジア共和国成立(王政廃止、大統領制)。初代大統領にブルギーバ。
→1974年カダフィーのリビアと合邦したがすぐに崩壊。
→1987年無血革命でベンアリが大統領に。→1991年湾岸戦争ではサダム・フセインを支持。
→2010年「ジャスミン革命」でファド・メバザヘが暫定大統領に。

パレスチナ問題では第3次、第4次と僅かながらアラブ側で派兵。1982年PLO本部が2年のみ移転した事がある。イスラエルを承認しているがガザ紛争では非難している。イスラム教スンニ派が98%で、アラブで最も女性の地位が高い国になっている。

【感想】
紀元前814年テュロス(今のレバノン)の女王エリッサが辿り着き原住民に分けて貰った土地。カルタゴ遺跡から今でもカルタゴ時代の軍港・商業港がはっきりと分かれていた事が眺望で確認出来た。ここからハンニバルがローマとの戦いに出陣して行ったと思うと感慨で胸が熱くなる場所だ。その後のローマ統治時代のバジリカ跡、アントニヌスの浴場もすぐ隣にあり見物出来た。

そこの隣の高台に大統領邸がありその方向の撮影は厳禁だった。メバザ暫定大統領の政権の運営状況は知らないが、ベンアリ追放のジャスミン革命はウィキリークスやSNS・Twitter等による安上がりな政府転覆の画策によるものと言って良いだろう。本当はベンアリの悪政というよりも米国金融システムの崩壊を阻止する為にFRB・米産軍複合体・ジョージ・ソロス達による石油独占、フリー・エネルギー移行阻止で石油高演出の意味合いが多いソフトな軍事作戦の初戦ではなかったかと推測している。

そこから海岸線を戻りフラミンゴの群れを遠くに観ながらチュニス市街に。まだデモ対策の有刺鉄線が残っていたが道の両側で多くの人達が集ってお茶を楽しんでいた。まだ失業中の人も多くたむろしているように見受けられた。出港時間が迫り地元の土産物商店街でショッピングする時間が僅かしかなく小物をじっくり選べなかったのは残念であった。

0 件のコメント:

コメントを投稿