2011年11月23日水曜日

地中海クルーズ記 <フランス、ミラノ>

⑦マルセーユ&エクス・アン・プロヴァンス

【概要】
マルセーユは人口82万人でパリに次ぎ2位、都市圏人口ではリヨンに次ぎ3位。近郊に古都エクス・アン・プロヴァンスがありそれらを合わせると135万人。南フランスの貿易・商業・工業の中心地。地中海最大、欧州第3位の玄関港として120カ国の港と連絡している。TGVでパリには3時間で行けるようになった。

マルセーユは商業都市で観光面の魅力は乏しいが、セザンヌの故郷のエクス・アン・プロヴァンスと共に2013年には欧州文化首都(1985年に始まった制度。1年間集中的に各種の文化事業を展開する)になる事が決定済みである。

【歴史】
・紀元前600年頃小アジアから来たポカイア人(ギリシャ民族)が築いた植民都市マッサリアに端を発する。ポエニ戦争ではローマ側につきカルタゴと敵対。紀元前49年からのカエサルとポンペイウスとの内戦ではポンペイウスを支持したが敗北し自治権限を縮小された。3世紀頃キリスト教が齎された。10世紀にプロヴァンス伯が支配。
・1481年にフランス王国に併合される。中世は振るわなかったが18世紀には港の交易が盛んに。1720年ペスト流行もあったが後半には復興した。フランス革命とナポレオン戦争で一時後退したがその後商工業が発展した。第2次世界大戦ではドイツ軍に占領され大きな損害を受けた。

【感想】
エクスの意味は泉だそうでプロヴァンスの街の至る所に噴水が見受けられた。5世紀から17世紀までのあらゆる建築様式が集合した旧市街の中心のルシェルム広場の朝市でプロヴァンスの石鹸を購入。セザンヌのアトリエは2階建ての林に抱かれた小さな建物だった(日本人の感覚では十分広いが)。机・椅子・絵の道具が当時のままで感動。ちょっと離れたローブの丘からサン・ビクトワール山を遠望した。この場所から見た山を1000枚以上(油彩は30枚?)も書き続けたのか!死後に皆世界各地に売れて行き、アトリエに原画が1枚もないのが人気を物語っているのだが…セザンヌの実家も近くにあり、父は銀行家で裕福だったようだ。

マルセーユに戻り、昼は本場のブイヤベースを味わった後、1ユーロのミニトレインでノートルダム・ド・ラ・ガルド寺院へ。ローマビザンチン様式の聖堂で高さ46Mの鐘楼の上に黄金のマリア様が。

高台で暫し風に吹かれ港や船を遠望して、又ミニトレインでスリルを味わいながら港に向かった。


⑧ミラノ

【概要】
イタリア・ロンバルディー州の州都。稚内とほぼ同緯度だが比較的温暖。イタリア第2位、北部イタリア最大の都市で人口130万人、近郊を含む都市圏は434万人とローマを凌ぎイタリア最大で、商工業・金融の中心。観光地としても名高い。
ミラノ・コレクションで知られるように古くから服飾・繊維等ファッション関連産業が盛んだが、近年は航空・自動車・精密機器工業も発達しておりイタリア最大級の経済地域を形成。

【歴史】
紀元前600年のケルト人の町が元。前222年にローマが征服しローマ帝国の元で繁栄。
4世紀、司教アンブロジウスと皇帝テオドシウス1世の時代は西ローマ帝国皇帝の宮殿のある首都に。→450年頃フン族、539年ゴート族に破壊されたが8世紀末再び繁栄を始める。
中世を通じミラノは大司教に統治されたが、封建貴族は独立性をある程度保ちながら大司教の世俗的支配から脱していった。 →東ゴート王国→東ローマ帝国→ランゴバルド王国の時代を過ぎ、
11世紀には富裕な自治都市へと変化させ、成長の回復と東ローマ帝国からの独立を果たした。
1162年、神聖ローマ帝国のフリードリッヒ1世の軍隊に破壊されたがすぐ復興し、ロンバルディア同盟を結成、1176年にはフリードリッヒ1世を打ち破り新しい繁栄の時代に。
中世後期とルネッサンス時代はヴィスコンティ家とスフォルツア家の公国に。
1277年ヴィスコンティ家が領主デラ・トレ家から統治権を奪い1447年まで支配。特に初代ミラノ公ジャン・ガレアッツオの時代は黄金時代であった。

1450年に軍人フランチェスコ・スフォルツアが統治者に。その息子ルドビコは学芸の保護に熱心でレオナルド・ダ・ヴィンチをミラノに招いた。しかし1500年にフランス軍が占領、一旦ミラノを去るが再訪、ミラノ派と呼ばれる画派を生んだ。スフォルツア家はフランス・スイス・オーストリアに操られながらも支配を続け、1535年血筋が途絶えるとスペインの統治下に。18世紀のスペイン継承戦争後、1714年のラシュタット条約によりオーストリア・ハプスブルグ家に帰属。
ナポレオンは1796年オーストリア人を追出しティザルピナ共和国の首都に→1815年ロンバルト=ヴェネト王国でオーストリアの手に戻るがイタリア抵抗運動の中心地となり1848年オーストリア人を追放。→1859年フランスの支援でサルディーニャ王国がミラノを解放。
1861年イタリア王国に加わり発展。
第2次世界大戦では連合国に激しい爆撃を受けたが戦後復興。戦後はモダン・デザインの発信地として国際デザイン美術展のミラノ・トリエンナーレが開催されている。

【感想】
ジェノバでスプレンディダ号に別れを告げ、午後ミラノ見学。ゴシック様式の大聖堂(ドウオモ)は天を突くような尖塔が135、ひときわ高い108mの大尖塔には金色のマリア像が見えた。

1386年に着工し正面ファイザードが完成したのが1813年、建設と修復がが同時に行われて来た建築である。エレベーターで途中まで上がり更に苦労して階段を上り屋根の上から尖塔を間近に見たり街を見下したりしたので忘れられない。

近くのヴィットリオ・エマヌエーレ2世のガレリア(アーケード)に行き、牛の絵のモザイクタイルの上を左足の踵で一回りすると願い事が叶うを得れるという所で行列に並び一回り。

最後にスカラ座前で再訪を期し、レオナルド・ダ・ヴィンチの記念像(1872年製)を撮影しミラノの短い滞在に別れを告げた。最後の晩餐の絵は見れずじまいであった。

地中海クルーズ記 <スペイン>

⑤マジョルカ島(スペイン)


【概要】
今は西地中海に浮かぶバイレアス諸島の州都。人口約40万人だが夏は倍に膨れ上がるとの事。観光はベルベル城と大聖堂とデパート巡りであった。

【歴史】
13~14世紀、スペイン北東部の国アラゴンの征服王・ハイメ1世が1229年からイスラム支配下のマジョルカ島に侵攻。1276年死去の際ハイメ(ジャウメ)2世に継承。兄のアラゴン王ペドロ3世と対立し、フランス王フィリップ3世・ローマ教皇フィリップ3世と連合し闘う等を経て1311年ジャウメ2世死去後財政危機に陥り1349年リュクマヨールの闘いに破れ滅亡、スペインのアラゴン王国に併合された。

【感想】
そのハイメ2世の居城としてスタートしたベルベル城。ベルベルは見晴らしの良いと言う意味らしい。小高い丘からパルマの街、ヨットが沢山繋留されているハーバーが良く見えた。近くにある大聖堂は1230年に建造開始、1601年にやっと完成したそうだ。カタルーニャ・ゴシックの傑作で20世紀の改修はガウディも係わったらしいが午後2時に着きデパート買い物も組まれた短い時間での慌ただしい観光だったので、この旅行で唯一不満の残った1日だった。

最後に現地ガイドさんが、日本人が120名位しかいないので移住してくれる人はいないだろうかと寂しそうに言っていたのが印象的であった。いい所ですよ。


⑥バルセロナ

【概要】
スペイン・カタルーニャ州の州都。人口160万人だが近郊を入れると420万人。14世紀に建設された城塞を起源とする旧市街と1859年の大拡張された碁盤の目のような新市街からなる。1992年のオリンピック開催地。

【歴史】
伝説ではハンニバルの父ハミルカル・バルカがカルタゴ人植民都市であるバルチーノを建設したと言う。後にローマ人がカストロム(ローマ軍の宿営地)に作り替えた。5世紀はゲルマン系西ゴート王国(415年~711年)が支配。476年に西ローマ帝国が滅亡するとフランク王国と覇権争い。621年イベリア半島をほぼ制圧したが711年イスラムのウマイヤ朝に征服された。
801年フランク王国の辺境領に組み込まれたが自立を始めカタルーニャ君主国を確立し、985年イスラムのマンスールの包囲を撃退。その後アラゴン王国は拡大しアテネまで地中海を支配するが、15世紀にカタルーニャ・アラゴン連合とカスティーリャ王国で統一王朝が出来るとスペインの中心はマドリードに移行していった。1714年スペイン継承戦争で再び荒廃。フェリペ5世は反乱したバルセロナを処罰した。
19世紀産業革命後「大拡張計画」が採用され中世の城壁は取り壊された。20世紀初頭にカタルーニャ人が自治と文化的表現の自由を求めて騒乱を起こしバルセロナの復活が明確になった。
この時のモデルニスモ(新芸術運動)を産業ブルジョワジー(グエル=ガウディのスポンサー)が支援した。

スペイン内戦(1936年~1939年)バルセロナは無政府主義運動の拠点に。しかしフランコ軍に侵略された以降数十年間は恐怖政治とカタルーニャ語の使用を禁じられる等の抑圧が続いた。この内戦の事は「誰がために鐘がなる」や「ゲルニカ」位しか知らないが、いろんな要素が入り乱れ骨肉も別れて争う激しい闘いだった事だけは間違いないようだ。
1975年以降自治政府も復活し「カタルーニャ」の独自性を追及する時代~現在に至っている。
バルセロナの人々はケチで働き者と言われスペインのGDPの1/4を稼いでいて普通のスペイン人とは違うようだ。

【感想】
ほぼ終日観光出来た。アントニオ・ガウディの代表作サグラダ・ファミリア(聖家族教会)は内部も、特に外観は見た事が無い芸術性が感じられ素晴らしかった。生誕の門、受難の門も工事が続けられていて何回も訪れた人達は口々に前はここまで出来ていなかった、又来て良かったと言っていた。

バルセロナの街と地中海を見下ろす高台のグエル公園の散策も実に楽しくガウディのカサバトリョ
カサミラは一度ご覧下さいとしか言えない空間でした。

昼は海辺の半野外レストランでパエリアとムール貝。子イカのフリッター等素朴な味は格別です。

午後のカタルーニャ広場にはいろんなお土産店や、奥の方には青果物・魚市場もあり多くの国から来た観光客達も交え大混雑でした。同じグループの常連の方は「ここのカラスミがおいしいので毎回買って帰る」のだそうです。バルセロナはとにかく楽しい再訪したい街でした。

夜はフォーマル・ナイトで船長主催パーティーで挨拶やアトラクションで盛り上がりました。

地中海クルーズ記 <チュニジア>

④チュニス(チュニジアの州都) 

【概要】
チュニジア共和国はアフリカ世界・地中海世界・アラブ世界の一員。アルジェリアとリビアに挟まれており現在はこの両国とモーリタニア・モロッコと5カ国で1989年に経済協力機構であるアラブ・マグレブ連合を作っている。

【歴史】
古代フェニキア人が交易拠点として移住し、紀元前814年カルタゴ建国、地中海貿易で繁栄した。しかしイタリアからの新興勢力・ローマとシチリア島の覇権を巡って衝突。

・紀元前264年に第一次ポエニ戦争。カルタゴは敗れシチリアを失い、スペインに拠点を伸ばす。
・第二次ポエニ戦争では名将ハンニバル・バルカ将軍が大活躍。象を引連れピレネーを越えてイタリアの北からローマを攻撃しローマを滅亡寸前まで追いやったが、スキピオに本国を攻略されて撤収。
・第三次ポエニ戦争で完全敗北し紀元前146年に滅亡し、チュニジアはリビアと共にローマの属州となりキリスト教も伝来。

その後西ローマ帝国の管区、ゲルマン系ヴァンダル人のヴァンダル王国→534年東ローマ帝国→アラブ人の侵入。アッバース朝カリフに臣従したアグラブ王朝・ファーティマ朝・ズイール朝・ムワッヒド朝と続き、1229年ハフス朝。「歴史序説」を著したイブン・ハルドウーンが活躍。
→1574年オスマン帝国に→フサイン朝
→1837年アフメド・サダク・ベイがアフリカ初の立憲君主になり、近代化・西欧化を図る。
1861年イスラム世界となり1864年憲法停止。西欧化挫折→1878年フランスに宗主権・フランス侵攻・1883年フランスの保護領に
→1907年青年チュニジア党→憲政党→新憲政党
→1956年アル・アミール国王を条件に独立。
→1957年チュニジア共和国成立(王政廃止、大統領制)。初代大統領にブルギーバ。
→1974年カダフィーのリビアと合邦したがすぐに崩壊。
→1987年無血革命でベンアリが大統領に。→1991年湾岸戦争ではサダム・フセインを支持。
→2010年「ジャスミン革命」でファド・メバザヘが暫定大統領に。

パレスチナ問題では第3次、第4次と僅かながらアラブ側で派兵。1982年PLO本部が2年のみ移転した事がある。イスラエルを承認しているがガザ紛争では非難している。イスラム教スンニ派が98%で、アラブで最も女性の地位が高い国になっている。

【感想】
紀元前814年テュロス(今のレバノン)の女王エリッサが辿り着き原住民に分けて貰った土地。カルタゴ遺跡から今でもカルタゴ時代の軍港・商業港がはっきりと分かれていた事が眺望で確認出来た。ここからハンニバルがローマとの戦いに出陣して行ったと思うと感慨で胸が熱くなる場所だ。その後のローマ統治時代のバジリカ跡、アントニヌスの浴場もすぐ隣にあり見物出来た。

そこの隣の高台に大統領邸がありその方向の撮影は厳禁だった。メバザ暫定大統領の政権の運営状況は知らないが、ベンアリ追放のジャスミン革命はウィキリークスやSNS・Twitter等による安上がりな政府転覆の画策によるものと言って良いだろう。本当はベンアリの悪政というよりも米国金融システムの崩壊を阻止する為にFRB・米産軍複合体・ジョージ・ソロス達による石油独占、フリー・エネルギー移行阻止で石油高演出の意味合いが多いソフトな軍事作戦の初戦ではなかったかと推測している。

そこから海岸線を戻りフラミンゴの群れを遠くに観ながらチュニス市街に。まだデモ対策の有刺鉄線が残っていたが道の両側で多くの人達が集ってお茶を楽しんでいた。まだ失業中の人も多くたむろしているように見受けられた。出港時間が迫り地元の土産物商店街でショッピングする時間が僅かしかなく小物をじっくり選べなかったのは残念であった。